親戚が宗教にハマっていた頃の話+α

はじめに

※今回の話は、一個人の思い出話とただの雑感である。あまり深い意味はない。

仲の良い親戚が一時期宗教にハマっていた。(ハマってたのは数年くらいで、今は目が覚めたらしくもうやってない)

確か、僕が小学生くらいの頃だったと思う。何の宗教かは言わないでおくが、所謂新興宗教の類だった。

その親戚はうちの親とも仲が良かったので、一時期にはうちの家族も一緒に一か月に1回くらい謎の集まりみたいなものに連れて行かれていた記憶がある。その集会所みたいなところまでは車に乗って高速道路で片道数時間くらいかかっていたので、それだけで一日が潰れた。

ただ僕の親は、僕がその宗教に深く関わらないように親戚との間で上手く壁になってくれていた記憶がある。自分たちは親戚付き合いもあるからしょうがないけど、直接関係ない子供のことは守ってくれていたのだろう。

当時は子供だったので宗教がどういうものなのかよく理解していなかったが、子供ながらに何か特殊なことをやっている気はしていた。なので、学校で友達にその集まりに行っている話をすることは避けていた。

このことに関して、当時疑問に思っていたことや今思うことを記録しておこうと思う。

子供の頃の率直な疑問

この人たちは何をやっているのだろう?

子供の頃の僕は、休日の過ごし方は「遊ぶ」か「宿題をする」以外に知らなかった。どうしても宿題をやらないといけないとき以外は遊ぶという子供としては当たり前の感覚である。

なので、集会所に集まっている大勢の大人たちが何をしてるのか全く意味が分からなかった。楽しそうではないから、遊びに来ているわけでもないだろう。かといって、宿題のように誰かに来いと言われて嫌々来た風でもない。

何でこの人たちは休日のこの時間をこの謎の集会に使っているんだろう?

なんで家に帰って遊ばないんだろう?

僕はこんな純粋な疑問を持っていた。

何で嘘を信じているのだろう?

信者の信仰のため、宗教には教祖や神(と呼ばれる作られた何か)に関する逸話の様なものが多く作られている。自分たちの神に祈ると病気が治るとか、そんな具合の奇跡系のやつである。

親戚が熱心に語っていた話も、そういう逸話の様なものが多くあった。どうやら、この大人たちはこの逸話の中で語られている奇跡の様な現象を信じてこの宗教を信仰しているらしいと子供ながらに理解することができた。とすると、次の疑問は当然こうなる。

なぜこの人たちは嘘を信じているのだろうか?

教祖の不思議な力と言われても同じ人間なのだからそれは普通に嘘だし、神とか地獄とか天国とか霊能力とか言われてもそれらは存在しない(いわば妄想に過ぎない)わけである。

ハリーポッターを読んで魔法の存在を信じているのと大差ない。

百歩譲って信じるにしても、1人で勝手に信じてもらえませんか?
信じるも信じないも個人の自由なはず。それを謎の正義感で勝手に勧誘しないでほしい。こっちはそれで大事な休日潰れてるんですけど!?

いやそもそも、大人がそんな嘘を信じる訳が無いはずだから、この人たちは「嘘をわざと信じる遊び」をやっているのか?とも子供ながらに思ったりもした。しかし、そんな絶望的につまらなそうな遊びをする意図も思い付かないわけで、結局ずっと疑問のままだった。

大人になって諸々思うこと

新興宗教の多くは末端の信者が不幸になる構造をしている

宗教を金儲けのビジネスとしてみた場合、宗教団体(教団)のターゲットは、信仰を求めている人となる。信仰を求めている人というのは、何かしらの悩みを持っていて潜在的に救いを求める気持ちを持っている人と考えられる。言い方を変えれば、人生が上手くいっていない(と自分で思っている)人ということになるかもしれない。

通常、元気いっぱいで人生上手くいってる人は信仰を必要としない。

そして、教団は表向きは悩みを持った人々を救うためと称して信者を取り込むわけであるが、実際にやっていることは金儲けである。様々な形で信者から金銭を徴収しているのがその証拠だ。言ってることとやっていることが逆になっている。

ほとんどの不安や悩みはお金があれば解決できる。本当に信者の悩みを解決したいのであれば、逆にお金をあげないと辻褄が合わない。

宗教で人の悩みを解決するための正しいスキームは、

悩みがある人を探す

勧誘して信者にする

信仰とお金を与える

のはずだが、実際はその逆で、

悩みがある人を探す

勧誘して信者にする

信仰を与えてお金を徴収する

となっている。

もちろん、教団側も組織を継続するためにお金を稼がなければならないことは百も承知だが、現実問題人からお金を取るとその人はさらに不幸になるわけなので、人を救いたいという目的と矛盾している。

さらに言うと、徴収する金額にちゃんと対応するモノやサービスを提供しているならまだしも、宗教団体のそれはお札や神棚の様なものにその宗教と言う付加価値を言い値で加えたものであることが多いわけであり、実態はほとんど献金に近い。客観的に見れば、信者は一方的にお金を徴収されているように見えるわけである。

このように、人生が上手くいかずに救いを求めて藁にもすがる思いで入信した信者を、さらに不幸にするスキームになってしまっているのが多くの宗教団体の現実であろう。ただ、本当に全員が不幸になっているのであればその組織は先細りして消滅するだけである。末端の信者はどんどんお金を徴収される一方で、組織の上層部は集まったお金や信者同士の人脈を使ってそれぞれの仕事で便宜を図っていると推察される。(この辺りは個人の勝手な想像)

信者が不幸になるのになぜ教団が大きくなるのか

末端の信者が不幸になる構造になっている(と考えられる)。と書いたが、それなら不幸になった信者は愛想をつかして脱退していき、どんどん人が減っていくのではないかとも考えられるが、宗教に限ってはその逆であると思われる。

なぜなら、信者はもともと何か悩みがあって救いを求めて入信しているわけであり、言うなれば不幸である(と自分で思っている)から入信したわけだ。すなわち、言い方は悪いかもしれないが、不幸になればなるほど信仰の度合いはむしろ上がると考えられる。

企業などの組織ではこの現象は通常あり得ない。社員を不幸にするブラック企業からは人がいなくなるのが常だ。

逆に本当に救われて悩みが無くなれば、それはそれでよりその宗教に心酔することになるだろう。

つまり、どちらに転んでも信者は減らない。

宗教、実にうまくできたシステムである。