同じ日本でも違う世界がある
世の中には、お互いがお互いの感覚を理解できない別世界が存在する。
俗に言う、「高学歴社会」と「低学歴社会」などがそうである。
良家に生まれ、当然のように大学を出て大企業に就職する。そんな高学歴社会で育った人は、高校を卒業したら当然のように就職し、20才前後で同じく高卒の同級生と結婚するような人生はイメージすらできない。
極端にわかりやすい言葉でいえば、
「都会のエリート」と「田舎のヤンキー」
となるだろうか。
都会で生まれ、私立の小・中・高校に通い、東大に入って大企業に就職。そんなエリート街道を突っ走った人間は、田舎の駅前やコンビニでう〇こ座りして仲間とタバコを吸いながらギャンブルの話をしているヤンキーがどんなものかを知らない。
生きている中でそういう人間と接触しないのだから当たり前だ。そして、逆もまた然りである。田舎のヤンキーは都会のエリートを知らない。唯一、両方を経験している人のみがその懸け橋となることができる。
僕は四国のとある田舎町で育った。
小学校と中学校は地元の公立に通っていた。今になって思うと、そこはまさしく社会の縮図であった。
少数派であったが、一部の人たちは都会の大学に進学し、医者や弁護士になった者もいる。一方、ほとんどの人は地元の高校を卒業しそのまま地元で就職した。高校にはいかず、中卒で駅前をフラフラするだけのヤンキーの鑑みたいなやつもいた。
その後、僕は20歳で地元を離れ大学に進学し、大学院を経て東京の企業に就職した。地元の同級生の中ではかなりの少数派である。そして、就職した会社の同期には住む世界が違うびっくりするようなエリートもいた。彼らは当然のように私立の学校に通い、有名大学を出て、その家柄もすさまじく良家という本物であった。
この、 「都会のエリート」と「田舎のヤンキー」という2つの世界をチラ見してきた僕が、様々な感覚の違いを伝えようと思う。
誰かから聞かなければ、魚が鳥の世界を知ることはできない。
「田舎のヤンキー」の世界
田舎にはサラリーマンがいない
僕が都会に来て初めてその存在を認識したものがある。
それは、サラリーマンだ。
都会で生まれた人は何を言っているかわからないと思うが、街中を歩くスーツ姿の大人を、僕は地元で見たことが無かった。普段の生活で見る大人と言えば、両親と学校の先生の他には、農家の人や大工さん、スーパーマーケットの店員さんくらいだった。
そもそも、田舎には大きい会社がない。というかオフィスビルなんてものが無い。
ほとんどの大人はマニュアル化された作業や力仕事をしており、頭を使ったクリエイティブな仕事している大人は田舎にはほぼいない。そのため、「頭の良さ」の価値が低い社会が形成されてしまっている。
頭の良い大人を見たことが無いのだから、子供たちも頭が良くなりたいと自発的には思わない。(田舎の大人は頭が良くないと言っているわけではなく、子供から見ると勉強のメリットを実感しにくいという話。)
都会の場合は、サラリーマンなんて石を投げれば当たるし、フェラーリやランボルギーニを乗り回し、美女を連れてこの世の覇者みたいな顔で街を歩いているおじさんもいる。それを見た子供は、良いか悪いかは別として勉強して偉くなったらこの世の覇者になれるんだ!などと思うきっかけになる。
しかし田舎では、そう思う機会すら与えられない。
こうなると、必然的に勉強をしている子供よりも、腕っぷしの強い子供の方がかっこいいと評価されるカースト制度が形成されてゆく。これが進んでいくと、勉強して成績のいい子供は「ガリ勉」とバカにされ、態度がでかく力が強い「やんちゃな子」が崇め奉られる世界になるのである。
勉強するのはダサい。学校サボるのがかっこいい。
田舎の公立中学校では、スクールカーストの上の方はヤンキーである。
中学校にもなると、ヤンキーは絶対に金髪にする。(たぶん公式のヤンキールールブックに書いてある)
そして、集団になって学校で騒ぐようになる。そしてそれを見た他の生徒もなぜかヤンキーに憧れ、仲間が増えていきどんどん勢力を拡大してゆく。そして、挙句学校には来なくなり駅前やコンビニの駐車場に縄張りを形成するようになる。
田舎では、勉強して成績が良いやつはダサくて、髪を染めて集団で騒いでいるやつがかっこいいのである。
これは都会とは真逆である。
都会のガチのエリートたちは、子供のころからスポーツもできて勉強もできる。話も面白い。こういうやつがカースト上位にいる。ヤンキーもいるにはいるが、カースト最上位ではない。
コミュニケーションが「会話」ではなく「攻撃」
田舎のヤンキーのコミュニケーションの取り方をご存じだろうか?
不必要な大声で「おい!オラッ!」からの、頭バシッ!!又は肩ドンッ!!
である。
「おはよー」とか、「昨日はありがとねー」などという意味のある言葉を発することはない。「おい!」か「オラッ!」である。やつらの口元をよく見てみるといい。いつでも「お」と発音できるような形で固まっているから。
とにかくやつらは、言葉を発さない分やたら物理的な攻撃をしてくる。
僕は中学時代バスケ部に所属していたのだが、やつらは毎日誰かのキン○マをつかんで「うりゃー!」と叫んで嬉々としていた。
人とのコミュニケーションの取り方が「攻撃すること」しか知らないのである。やつらは会話を楽しむという概念を持っていない。彼らの中での遊びは誰かを物理的に攻撃して楽しむことなのである。
民度が大江戸線くらい低い
「民度」とは、知的水準、教育水準、文化水準、行動様式の尺度である。
田舎のヤンキーはこれが著しく低い。低いというかもう地下に潜っている。田舎のヤンキーが分からない例えをしても意味ないが、大江戸線の六本木駅くらい地下に潜っている。
やつらの民度の低い言動・行動は、だいたいどの世代でも共通している。今回はその一覧を紹介しようと思う。
これに当てはまる人は田舎のヤンキーの素質があると思うので、そのまま地元で大人しくしておいてほしい。
- 髪を染めようと自分でブリーチして頭皮を痛める。
- ピアスを自分で開けようとして耳も痛める。
- 痛めたままの状態でピアスを付けてさらに痛める。
- 「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えない。
- 「いただきます」と「ごちそうさまでした」も当然言えない。
- 高校生の時に仲間と酒を飲んで停学になる。
- タバコをこれ見よがしに一般生徒の見えるところで吸う。
- タバコを吸うことを、「ヤニ吸いに行く」という。
- 彼女のことを「女」という。
- バイトのことを「仕事」という。
- 友達のことを「ツレ」という。
- ビッグスクーターに乗っている。
- クラスを仕切ろうとする。
- 体育祭も仕切ろうとする。
- 地元の祭りには絶対行く。
- スロットにはまって留年する。
- 大人になってもスロットはやめない。
- 大人になっても中学・高校のメンバーでつるんでいる。
- 大人になっても頑なに地元を出ない。
- 大人になると話題の10割がギャンブル、酒、たばこ、車、警察の悪口。
- 人に迷惑をかけて笑っている。
- 人に迷惑をかけるのがかっこいいと思っている。
※全て個人の見解
民度の低さは自分ではわからない。
民度は相対的な指標であるため、一度高い世界を知らなければ自分の低さに気付くことはない。そのため、当の本人たちはこれらの行動が民度が低いという事すら知らない。
田舎のヤンキーを超越する
ここまで、ちょっとネガティブな内容を紹介してきた。
「なんや、ほな都会に生まれへんかった時点で負けやないかい」
「田舎に生まれてもーたら、どうしようもあらへんっちゅーこっちゃろ」
とゴリゴリの関西の田舎の人は思うかもしれない。
しかし、僕自身はそんな田舎の生活でも良かったことがあった。
それは、「何としてでもこの世界を抜けて、都会で成功してやろう!」という野心が強く芽生えたことである。このハングリー精神が、後に大学・大学院への進学、東京の企業に就職する原動力になったのかもしれない。
ほとんどの子供たちは田舎の雰囲気に身を任せそのまま地元に残るかもしれないが、人生逆転ゲームに挑むカイジ的な能力が高まる子供も、少数派ではあるが出現する。
そのような子供は、都会のエリートは持っていない強い野心を持っている。これが、田舎のヤンキー社会をチラ見して生きてきた人の大きな強みなのかもしれない。
「都会のエリート」の世界
天国はここにあった
僕の会社の同期は30人いたが、その多くは「都会のエリート」かそれに近い人たちだった。そこで僕は、初めて彼らのような本物と触れ合った。
彼らはちゃんと会話でコミュニケーションを取ってくれる。いきなり肩をパンチしたりしない。というか、不用意に人の体に触れたりしない。頭もいいから会話も面白い。
休日に一緒に遊びに行ったりしても、本当に楽しい。必要以上に人に干渉しないけど、困ったときはみんなで助けてくれる。「ありがとう」が普通に飛び交う。僕にとっては、平日の仕事も、休日の遊びも天国だった。
僕自身は都会のエリートではないが、彼らと過ごす時間はとても居心地の良いものだった。
これらの環境が当たり前だと思っている人は、都会のエリートの中で育っているんだと思う。とても素晴らしい環境である。そのまま友達を大事にしていってほしい。
親や親戚がWikipediaに載ってる
彼らの家系は由緒正しすぎて、親や親戚がWikipediaに載っていたりする。親が大学教授(それも東大とか)は普通だし、おじいさんが財界の著名人とかまである。
ある日、僕が東京で遊びに行ったとある地域の話をしていた時に、「あそこの地名は彼女のおじいさんが名付けたんだよ」と同期を指して言われた。僕は恐れ多すぎてチワワみたいに震えた。
ここまで高レベルな良家で育った人は、雰囲気ですぐわかる。マジで育ちの良さがその人からあふれ出している。話し方がなんというかとても丁寧で皇族とかが使いそうな言い回しを使ってくる。体の動きもなんかゆったりしていて余裕がある。全体の雰囲気がとにかくおしとやかだ。
しかし、本人たちはその高貴な雰囲気をひけらかしている訳ではない。ほんとに内面からにじみ出てしまっているのだ。
僕は思った、
育ちの悪さは隠せるが、育ちの良さは隠せない。と。
民度がエベレストくらい高い
民度があまりにも高いため、彼らの周囲は酸素が薄くなっている。
全然面白くないことをあえて言うが、民度が低めの人が急に近づくと高山病になるので注意しよう。
ここで、僕が見た都会のエリートたちの特徴を紹介しよう。
- まず、言葉使いが丁寧。
- 初対面の人には敬語を使う。もちろん相手が年下であっても敬語。
- 不用意に人の体に触れたりしない。
- 「ありがとう」や「ごめんなさい」をちゃんと言う。
- 「いただきます」と「ごちそうさまでした」もちゃんと言う。
- LINEの文章も丁寧。友達であっても「親しき中にも礼儀あり」の精神を感じる。
- 年1回くらいのペースで海外旅行に行ってる。
- 親や親戚がWikipediaに載ってる。
- 親が当たり前のように援助してくれる。
- 中学や高校時代のクラスメイトに有名人の子供がいる。
- ギャンブルはやったことが無い。たまにやったことがある人もいるが、頭が良いためちゃんとトータルでプラスにもっていってる。
- たばこは吸わない。
- 会議では建設的な意見を言う。
- ちゃんとした趣味を持っている。美術館巡りとか、ピアノとか、競技自転車とか、登山とか。しかも、その界隈ではトップレベルだったりする。
- 約束は破らない。
- お金を貸したらちゃんと帰ってくる。
- 人を馬鹿にしたりしない。
- 話が面白い。
- 一緒に遊びに行くとめっちゃ楽しい。
民度の高さも自分ではわからない。
もし、これを見て「え、これって普通じゃないの?」と思った人はそういうことである。そのまままっすぐ育ってほしい。
どっちが良い悪いではない
同じ世界で生きていても、理解できない感覚を持つ人がいる。
それは、集団としてみた時に多様性を持っているということだ。
人間に限らずであるが、生物はみな集団で生活し繁栄してきた。
どれだけ民度の高い大天才でも、たった1人で何万年も存続していくことはできない。
そしてこの多様性は、集団をより強くする。
具体的には、環境の変化に対して多様性を持つ集団の方が、多様性を持たない集団よりも強くなる。
つまり、どっちが良い悪いという話ではなく、両方いることが大事なのである。
例えば、大昔の石器時代に「考える前に行動する人」と「考えてから行動する人」がいたとする。
ここで、次のような3つの集団を考える。
- 集団1は、「考える前に行動する人」だけ。
- 集団2は、「考えてから行動する人」だけ。
- 集団3は、どちらも半々くらい。
この中で多様性を持っているのは、集団3だ。
集団1と2は、同じタイプが大人数集まっただけの集団であるが、集団3だけは2つのタイプが共存している。
※わかりやすくするため、2つのタイプだけでも多様性と表現する。
さて、平穏に暮らしている3つの集団のもとに、経験したことのない大嵐が直撃したとする。この時、各集団の行動は、
- 集団1:何かわからないが、とにかく逃げて全員無事だった。
- 集団2:この雨風が何なのかその場で考えているうちに全員が大きな被害を負った。
- 集団3:「考える前に行動する人」はすぐに逃げた。一部の「考えてから行動する人」もそれを見て一緒に逃げた。しかし、残った人は大きな被害を負った。
であった。
この場合、最も集団の被害が少なく済んだのは、集団1である。
集団2は、この時に負った被害によってここで滅びてしまった。
集団3は、一部の「考える前に行動する人」を失ってしまったが、集団の3/4程度は無事だった。
この、「大嵐が直撃する」という特定の環境の変化に対して、最も強かったのは集団1である。「考える前に行動する人」の行動が、この大嵐に対応するための正解だったからだ。
しかし、次に「考えてから行動する人」の行動が正解である環境の変化が起こった場合には、集団1は一気に滅んでしまう。
この時に残るのは、「考えてから行動する人」が残っていた集団3のみとなる。
このことから、多様性を持った集団は、特定の環境の変化に対して特別に強いという事はないが、複合的な環境の変化に対しては総合的に強い。ということが示唆される。
これは極端な例だが、ニュアンスは伝わったと思う。
話が大きくなってしまったが、要は「都会のエリート」と「田舎のヤンキー」の存在は、お互い理解しあえないものの、どちらが良い悪いの話ではないという事だ。
大事なのは、お互いがお互いの存在を認識し、それを人類の持つべき多様性として受け入れることである。