相互作用ネットワークで考える人間社会

はじめに

人間とはどのような生き物なのでしょうか?
人間は社会の中でどのように生きるべきなのでしょうか?

今回の内容は、人間という生き物の仕組みと、人間が構成する社会についての私なりの考えを記したものです。誰しもが自分の中に、「人間/社会ってこういうものだよね」といった感覚を持っていると思いますが、本稿は私の中のそういった感覚を言語化したものだと思ってください。

一方で、これは自分の考えの芯となっているような部分を公開することになりますので、少し恥ずかしい気持ちもあります。また、理論が整理し切れていない部分も多々あると思います。しかし、何かの間違いで読んでくれる方や、未来の自分自身に対して、ちょっとした暇つぶしの小話の1つでも提供できれば嬉しいなと言う気持ちで書きました。

【今回の文章について】
今回の文章は今までの私のブログ記事と少し違った文体(ですます調)や書き方、内容になっています。これは特に理由があるわけではなく、いつも通り書きたいものを書き始めたら自然とこうなってしまったというだけです。また、第一章と第二章の内容は、第三章に向けた論理基盤を構築しているものになりますので、その性質上少々堅苦しくなっており、読みものとして楽しいものではないかもしれません。そういった文章が得意でない方は、第三章からご覧いただいても問題ありません。

第一章:人間というシステム

第一章の概要

ここでは、人間が実際に持っている特徴について考えながら、その特徴を発現するために備わっているべき機能について私なりの推察を書いていきます。第一章でまずは単体の人間について述べ、第二章以降で集団での振る舞いを考察していきます。

システムの入力と出力

入力と出力

私たち人間は、自然環境に適応するために、自分たちの周りの状況を正確に認識する必要があります。そのためには、環境からの刺激を受け取る感覚器官が必要不可欠です。

我々の身体には、そのための高性能な感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚)が搭載されています。この感覚器官を使って五感(視覚・聴覚・味覚嗅覚・触覚)情報を取得し、それらを脳内で高次の概念として処理することで外の世界を知覚しています。さらに外部だけでなく、自分自身の情報を取得することもできます。例えば、「気分が良い」といった感情や「お腹が減った」などの欲求を感じ取ることができます。

人間を1つのシステムと考えると、これらの情報はシステムへの入力とみなすことができます。

我々はこれらの入力に対応する形で、腕を動かして物をつかんだり、声を出したり、あるいは楽しいという感情を感じたり思考したりといった反応を示します。つまり、人間の身体は、多様な刺激を入力して多様な反応を出力するシステムであると考えることができます。

自らのシステムを変化させる機能

自らのシステムを変化させ成長する

例えば、人間というシステムが寒いという刺激を受け取り、体を暖かくするために服を着るという反応を示す場合を考えてみます。これは日常でよくある反応ですが、生まれたばかりの赤ちゃんはこのような反応を示すことができません。なぜなら、彼らはまだ「寒い」や「服」という概念を学習できておらず、さらに「服を着る」という経験、そして「服を着ると暖かくなる」という経験もないためです。

これらのことから、人間は新しい経験を通して自らのシステムを変化させる機能を持っていることが示唆されます。つまり、システムの中身は固定されておらず、新しい入力によって絶えず変化するということです。

この例のように、寒いという刺激を受けた経験や、服を着たら暖かくなった経験などを通して、システムは自らをその刺激に対応できる形に変化させます。そして、次に同じような刺激が来た場合には、以前の経験をもとに対応することができるようになるのです。他にも、新しい知識の習得や能力の向上といった現象も、自らのシステムを変化させることで可能になっていると考えられます。

この自らのシステムを変化させる機能には、自分自身を成長させ環境への適応性を高めるという重要な役割があります。つまり、このような自己変化を積極的に行うことによって、システムが様々な環境に対応できるようになるのです。さらに、このような自己変化を促すために、システムは新たな入力を絶えず求めていると考えられます。実際に、幼少期の子供が積極的に動き回って色々なものを触ったり、口に入れたりする様子からも、システムにこのような欲求が備わっていることが推察できます。彼らは自らを成長させる自己変化のために、新しい刺激を常に求めているのです。

【学習の過程で脳内で起きていること】
人の脳内では、膨大な数の神経細胞によって神経ネットワークが形成されています。神経細胞は軸索と樹状突起の間のシナプスを介して情報伝達を行っており、記憶や学習の過程でシナプスの強化を引き起こし神経ネットワークの構造的な変化をもたらすとされています。ここでシステムの変化と呼んでいるものは、実際には脳内の神経ネットワークの変化に他なりません。

【人工知能との関係】
神経細胞(ニューロン)による神経ネットワークを模擬したものが、人工知能(AI)の分野でよく聞くニューラルネットワークです。さらに、ニューラルネットワークの階層を深くしてより神経ネットワーク構造に近づけたものは、特に多層ニューラルネットワークやディープニューラルネットワークと呼ばれています。これらの人工知能は、画像認識や将棋など特定の分野で既に人間を超越する能力を示しています。こうした顕著な成果は、脳というある種の神秘的なシステムに対する人類の理解が正しいことの裏付けになっていると考えられます。

刺激を自ら誘起する機能と人間の意識

システムの内部で刺激を自ら誘起できる

ここまでで、人間というシステムが様々な刺激を入力し様々な反応を出力しながら自己変化を繰り返す能力を持ってることを示しました。しかし、これだけでは実際の人間を十分に説明することができません。

なぜなら、人間は単に受動的に刺激に反応するだけの機械ではなく、自己の内面に意識を持っている生き物だからです。意識を持っていることによって、人間は能動的に行動することができるようになっています。

システムが内面的な存在としての意識を持つためには、内部で自分自身への入力を誘起する機能を持っている必要があると考えられます。この時に、システムは自分自身に入力した刺激に対しても反応を出力すると考えると、これにより、自分自身で入力→出力→それを踏まえてまた自分で入力、というサイクルを循環させることが可能になります。このことは、システム内部で自分自身のシミュレーション(想像の中で自分自身を動かす事)を行うことが可能になっていることを意味しています。

システム内で自分自身のシミュレーションを行う

ここは少しわかりにくいと思いますので、具体的に説明します。

例えば、温泉旅行に行っている自分という状況をシステムの内部で作り出し、それを自分自身への刺激として入力することで、システムは「温泉旅行に行って露天風呂に入って気持ちいいと感じている自分」を出力として取り出すことができるということです。これは、実際に体験していないことをシステムの内部だけで行っていることになり、まさに自分自身のシミュレーションといえます。そして、我々がこのシミュレーションを行っている間は、出力した情景や感情を実際に感じていることになります。

このことは、我々が普段意識の中で行っている想像(露天風呂に入ったら気持ちいいだろうな、といった想像)そのものであることがわかると思います。つまり、このシミュレーション機構の活動が人間の意識の正体であると推察できます。

【人生の追体験】
我々は、小説や伝記などを読むことで登場人物の人生を追体験できますが、それもこのシミュレーション機構の活動によるものと考えられます。

概念を組み合わせる機能

概念を組み合わせて入力を作る

このシミュレーションにおいて、自分自身が経験したことのない入出力を生成するためには、予め学習した抽象的な概念を組み合わせる必要があります。例えば、温泉や旅行といった概念を組み合わせて「温泉旅行に行った自分」という入力が生成できます。同様に、楽しいや気持ち良いといった感情の出力は、今までに学習した感情に関する概念を組み合わせて生成できます。

シミュレーションを上手く回すためには、精密な入力と出力をシステムの中だけで生成しなければなりません。そのためには、入出力の材料となる抽象的な概念をできるだけ多く保持している必要があります。しかしながら、我々が自分の中に保持している概念は、これまでの人生で周囲の人々や環境から与えられた刺激に依存するため、その数や種類は人によって異なります。

例えば、露天風呂に入ったことが無い人は、自分の中にある他の概念(例えば、「温泉」と「屋外で感じる肌寒さ」など)を組み合わせて露天風呂という概念を生成しなければなりません。また、露天風呂に1回しか入った事のない人よりも、何回も入っている人の方がより精密な露天風呂の概念を作り出すことができるでしょう。

このように、その人が持っている概念の数や種類に応じて、実行できるシミュレーションの傾向や範囲、精度が異なります。つまり、同じことを考えようとしても、人によって想像する状況やそれによって感じる感情も異なるということです。この違いは、人間の個性の源泉になっていると考えられます。

【大人と子供の意識の違い】
大人になるにつれて感情が複雑になるのは、子供の頃に比べて多くの感情に関する概念を学習したからだといえます。逆に、幼児期にはまだ概念を多く学習できていないため、シミュレーションが上手く機能しないでしょう。幼い頃はあまり記憶が無く「物心がない」と表現されることがありますが、これは、まだ自分自身でシミュレーションを回せない状態にあると考えることができます。

【機械学習による概念の獲得】
ディープニューラルネットワークによる機械学習の過程を見ると、ネットワークが高次の特徴量を抽出することで概念を獲得している様子が見て取れます。例えば、ネットワークに猫の画像を大量に読み込ませると、猫としての様々な特徴(目が二つある、輪郭の外側に三角の耳が二つある、等)を自ら見つけ出し、その特徴が合わさったものが猫であるという判定を行っていることがわかります。この時にネットワークが見つけ出した猫としての特徴の集まりが概念であると思われます。つまり我々の脳内でも、このような特徴の集合を概念として持っており、その概念を使って思考活動をしている可能性が高いといえます。

【概念と想像力】
例えば、猫の概念として「ニャーと鳴く」「4本足で走る」、鶴の概念として「羽を使って飛ぶ」といった特徴を学習によって獲得しているとしましょう。我々人間が想像力を発揮する際には、脳内でこれらの特徴を組み合わせることで「羽を使って飛ぶ猫」や「ニャーと鳴いて4本足の鶴」などを想像することができると考えられます。つまり脳内では、概念を個別に保存しそれらを組み合わせることができるということを示唆しています。

【概念を組み合わせる実際のメカニズムは不明】
機械学習において、ディープニューラルネットワークが概念を獲得することが可能であることは知られています。しかしながら、この獲得した概念同士を組み合わせ、さらに自分自身のシステムに再帰的に入力するための実際の脳内メカニズムは、私が知る限りまだ解明されていません(そもそも存在しない可能性もありますが)。個人的には、概念を獲得して局所的な結びつきが強くなった複数の神経ネットワーク領域の自己刺激を促進するような機構が存在していると予想しています。

シミュレーションによるシステムの自己変化と価値観

システムを自己変化させるためには、環境からの新しい刺激が必要です。しかしその他にも、人間は自分自身のシミュレーションによっても自己変化することができると考えられます。これは、自らが獲得してきた概念同士を自身のシステム内で組み合わせることで、自ら新しい概念を生成することができるからです。

例えば、学校の授業で多くのことを一度にインプットした後に、家で1人で頭の中でそれらの知識の破片を繋ぎ合わせてより体系的に理解する、といったイメージです。そして、このように獲得された概念が、さらに次のシミュレーションをする際の基盤となります。これはまさしく、自分というシステムの自己変化による成長に他なりません。

また、概念という点と点を繋ぎ合わせることによって、システムは個性のベースとなる価値観を手に入れていると考えられます。先ほどの温泉旅行の例で言うと、「温泉」や「旅行」、「楽しい」といったものはそれぞれ概念でしかありませんが、「温泉旅行に行くと楽しい」という風に繋ぎ合わせると、それはひとつの価値観になります。このように、私たちは自分が獲得した概念を材料として、自らの内部で価値観を生成しているのです。

【言語を使うと複雑な概念を生成することができる】
言語を使うことで、人間は複雑な概念を作り出すことができます。言葉と刺激をセットで学習して概念として保持し、さらにそれらを文章的に組み合わせることで、「温泉旅行に行くと楽しい」と言うような複雑な状況を表現することができるのです。これにより、シミュレーションもより複雑なものとなり、それによって獲得できる概念や価値観も複雑なものとなります。

第二章:相互作用ネットワークの形成

第二章の概要

第一章では、個々の人間が持っているべき機能について考えてきました。ここからは、人々が集団で活動することによって引き起こされるマクロな振る舞いについて考えていきます。

他のシステムとの相互作用

他のシステムとの相互作用

第一章で、人間というシステムは外部からの刺激によって成長し新しい概念を獲得することができること、また、システムには自己成長のために必要な刺激を積極的に求める欲求が備わっていることを示しました。

ここで、自分以外のシステムを考えると、一方のシステムの出力はもう一方のシステムへの入力となることがわかります。このシステム間の入出力のやり取りは、友達同士の会話などの所謂コミュニケーションのことです。そして、お互いのシステムは新しい入力を求めていますので、これはつまり、人間が本能的に人との繋がりを求めているということを示唆しています。

このような人と人とのコミュニケーションにより、システム同士の入出力の繋がりができます。これは、お互いのシステムに変化をもたらす相互作用となります。

相互作用によってお互いのシステムが変化する

従って、人と人との繋がりは個人のシステムの成長にとって重要な役割を果たします。そして、相手からの出力を材料として自らのシステムを変化させるということは、変化後のシステムには相手からの出力の特性(つまり相手の個性)が含まれることになります。その逆も然りで、相手のシステムには自分の個性が含まることになります。即ち、人と人とのコミュニケーションは、お互いの個性をお互いのシステムに組み入れる行為であると言うことができるのです。

このようなシステム間の相互作用は人から人へと伝搬して行き、複数人が集まるコミュニティの中では、この相互作用がネットワーク状に張り巡らされることになります。このようにコミュニティの中で張り巡らされた相互作用によるネットワークを、私は「相互作用ネットワーク」と呼んでいます。

相互作用ネットワークの必要性

コミュニティを形成することで社会性を獲得する

人間というシステムが自身の成長のためにお互いの入出力のやり取りを求め合う、ということは、必然的に人間は集団で活動するようになることを示唆しています。お互いが近くに存在している方が、入出力のやり取りが容易になるからです。このような活動をある程度共にする集団は、一般的にコミュニティと呼ばれ、所属している人々の間で相互作用ネットワークを形成することになります。

相互作用ネットワークを形成したコミュニティでは、人々が互いに入出力のやり取りによるシステムの自己変化を通して複雑に影響し合いながら、それぞれが獲得した概念を共有し合います。これにより、コミュニティ内の人々は、概念や価値観、さらには特定の専門分野についての知識や信条について、ある程度共通の認識を持つようになります。このような集団は一般的に認識共同体と呼ばれますが、これは、相互作用ネットワークが成熟した一つの姿であると考えることができます。

例えば、国家、家族、学校、会社や趣味を共にする団体などがこのような認識共同体と言えるでしょう。これらのコミュニティでは、所属している人々がある程度共通の概念を持っているため、考え方や行動のベクトルが同じになり易いと言えます。そのため、社会的に正しい概念を共有した認識共同体は、人をより理性的にしたり技術を進歩させますが、逆に間違った概念を共有している認識共同体は、集団で間違った方向に突き進むことになります。

成熟した相互作用ネットワークは認識共同体となる

さらに、コミュニティを形成することによって、人間は初めて自分以外の相手を気遣うといったような社会的な価値観を獲得できるようになります。人間は本能的にコミュニティを形成し、それによって必然的に社会性を獲得する、と言うことができます。このことからも、人間が社会的に生きる上で、コミュニティの様な相互作用ネットワークが重要な役割を果たすことがわかります。

【社会科学との関係】
数々の名著を残してきた社会科学者たちも、人間が人間らしく生きるためにコミュニティの重要性を説いています。例えば、エミール・デュルケームは、言葉は違いますが「職業団体」や「同業組合」に個人を帰属させることで、それぞれの個人が仲間との絆を深め、団体に規律され、同じ目的のために一緒に行動することで生きる意味を見出すことができると考えたようです。また、カール・ポランニーが重要視した労働組合、農業組合、生活共同体も同じようなものとされています。さらに、アレクシス・ド・トクヴィルが見出した「中間団体」、ロバート・パットナムが「社会関係資本」と呼んだものも同じもののようです。現代の評論家である中野剛志氏は、これらの意味するものは1990年頃の社員と会社のあいだに人間的な繫がりを重視した「日本的経営」と似ているとの考えを示しています。

日本的経営や労働組合などの言葉だけを見て反射的に拒否反応を示す人も多いかもしれませんが、その意味するものは恐らく想像と違います。彼らは、人間が人間らしく文化的に生きるためには、人と人との心の繫がりを大切にする必要があり、そのためにコミュニティが重要な役割を果たすということを言っているに過ぎません。人間というものを素直に考えれば、考え付くところは皆同じということでしょうか。

【人間とは相互作用ネットワークの構造そのもの】
コミュニティの中で、私たち人間は、相互作用ネットワークによって伝搬されて来た概念を獲得することで自己変化を繰り返して成長していきます。そして、成長した個人が獲得した概念が相互作用ネットワークを通じて広がり、コミュニティ全体がさらに成長します。相互作用ネットワークを通して、個人はコミュニティの恩恵を受け、さらにそれによりコミュニティが個人の恩恵を受けるという循環が生まれます。これを繰り返すことで相互作用ネットワークは成熟していき、結果的に全体で固有の価値観や文化を持つようになるのです。

そしてこの時、自分の個性は相互作用ネットワークを伝搬して所属する人々全員に広く浸透します。その逆に、周りの人々の個性は自分の中に含まれるようになります。つまり、これまでの過去も含めて全ての人間の個性が相互作用ネットワーク上に広く分布して存在していることになります。このことから、人間とはこの相互作用ネットワークの構造そのものである、と言うことができるのかもしれません。

コミュニティには多様性が内在する

私たち人間は、相互作用ネットワークを形成するコミュニティを構築して繁栄してきた集団的存在です。しかしながら、私たちを取り巻く環境は常に変化し続けており、これら環境の変化は予測不可能なものです。そのため、人々は生き残るためにその変化に対応しなければなりません。

大きな環境の変化に対応するためには、第一章で述べたような個人の成長による自己変化も必要ですが、それ以上に、多様な特性を持つ人たちで構成された相互作用ネットワークを持っていることが重要です。実際、コミュニティ内に多様性があることで、将来の環境変化に対しても、誰かしらが適応できる可能性が高くなります。例えば、ある種の病気に対する免疫力を持つ人が、病気が蔓延した場合に生き残る可能性が高いといった具合です。

また、相互作用ネットワークを通じて人々が成長していくためには、それぞれに対する多種多様な新しい刺激が必要ですが、そのためにもコミュニティ内の多様性は重要な要素となります。例えば、それぞれ異なる概念を持った人々が集まることで、それぞれの入出力の相互作用によってお互いが新しい概念を獲得し成長することができます。

このように、将来の環境変化に対して適応するためには、コミュニティに多様性が内在している必要があるのです。逆に言うと、多様性が内在しないコミュニティは存続しないということです。

【多様性と混沌】
多様性をただ単に「何でもありの混沌」として理解してしまうことは、多様性を誤解することにつながる可能性があります。例えば、単に色々な人がいることが多様性かと言われると、そうではないと思います。私の中で多様性とは、成熟した相互作用ネットワークが前提となっているのです。つまり、相互作用ネットワークによって「ある程度」同じ概念を共有している上での個の違い、これがコミュニティにおいての多様性だと考えています。

文化的背景も違う、言語も違う、価値観も全く違う、そんな人々がただ一か所に集められただけの集団は、相互作用ネットワークを形成することができず、ただの混沌と言えるでしょう。

人間は適切なコミュニティを求める

人間が成長するには、つまりはシステムが良い自己変化を遂げるためには、当然良い刺激を受け取ることが必要です。そのためには、自分にとって良い刺激を与えてくれる様な相互作用ネットワークを形成しているコミュニティに所属することが必要になります。

つまり、人間は成長のためにより良いコミュニティを求めるものだということです。一方で、成長が見込めないと判断したコミュニティからは離脱する傾向があるとも言えます。自分にとって良い会社であれば長く勤めたいですが、劣悪な労働環境であれば一刻も早く辞めたいと思うのと同じです。

また、コミュニティの相互作用ネットワークに良くない影響を与えている人は、そのコミュニティから排除される場合もあります。いつも人を傷つけることばかり言っている人や、暴力的な人は次第に誰からも相手にされなくなり、周りから人がいなくなっていきます。これは、その人がコミュニティから排除されているということです。

【良い悪いは絶対的なものではない】
人間は良いコミュニティに入ったり、コミュニティを良くしようとする傾向にありますが、この時の良い悪いはあくまで「その人にとって」という主観的な基準でしかありません。その人が良いと思ったコミュニティが、他の人から見ると悪い場合もあります。また、その人がコミュニティのために良いと思ってした行動が、他の人からすると排除するべき悪い行動であることもあります。

時代を超える相互作用

自分の個性や価値観は、相互作用ネットワークによって繋がっているコミュニティ内の人々のシステムに影響を与えます。その逆に、他の人の個性や価値観は自分のシステムに影響を与えています。そして、システム同士の相互作用は、同じ時代に生きている者同士だけに許されたものではありません。時代を超えた相互作用も存在します。

例えば、歴史上の偉人が残した本を読むことでその人の考え方を学ぶことができますし、遺跡や絵画などの歴史遺産に触れることでその時代の人々の意思を感じ取ることができます。自分の遠い先祖には直接会ったことが無いかもしれませんが、その意思は時代を超えて張り巡らされた相互作用ネットワークによって自分のシステムに影響を与えていると考えることができます。

一方で、自分が残したものは未来の誰かのシステムに影響を与えることができます。書籍など物質的なものはもちろん、人と人とのコミュニケーションを伝搬することで世代を超えて自分の意思を繋げることができるのです。

国の文化という相互作用ネットワーク

国の文化は巨大な相互作用ネットワーク

国の文化は、とりわけ巨大な相互作用ネットワークであると考えることができます。文化は、単に芸術や音楽などの表面的なものだけではなく、生活様式、食文化、言語、宗教、歴史、伝統、習慣など、様々な要素が含まれています。それらの概念や価値観が、その国の歴史と共に人々によって脈々と受け継がれています。

つまり、文化とは、未来に生きる自分たちの子孫の繁栄を願い、そしてその生活を守るために死力を尽くしてきた先人たちから、今を生きる我々やさらにその先の子孫に繋がって行くとてつもない程に大きな意思の伝搬であると言えます。

【文化の破壊】
相互作用ネットワークをベースにして日本人とは何かを考えてみると、日本人とは、日本の歴史の中でそこに生きる人たちによって伝搬されてきた概念や価値観を共有している人たちである、と考えることができます。これは日本以外の他の国や地域でも同じです。

そのため、その国の相互作用ネットワークに属していない人たちをただ形式上その国の国民としたところで(移民政策や植民地支配によって)それは文化的に成立しないでしょう。実際に、ドイツでは移民による犯罪率の高さが社会問題となっています。また、アイルランドはイングランドによる植民地支配によって自分たちの言語(ゲール語)までも衰退させられてしまいました。一方の相互作用ネットワークにもう一方が飲み込まれた格好です。

自分の所属していた相互作用ネットワークから強制的に除外させられたり、全く別のネットワークに組み込まれたりすると、概念や価値観が合わずに問題が起きることは火を見るよりも明らかです。文化ほどに巨大な相互作用ネットワークは、それぞれが独立して存在するべきなのかもしれません。

第三章:相互作用ネットワークと人間社会

第三章の概要

相互作用ネットワークを基に考えることにより、実社会での様々な実践的な(私なりの)考え方が導かれます。この章では、具体的な例を出しながらそれらの考え方について述べていこうと思います。

臨機応変に対応することは難しい

私たちは大人になると、システムの構造(脳内の神経ネットワーク)がある程度固定化されると考えられます。このことは、大人になるにつれて性格などの内面的な部分にあまり変化がなくなることを示しています。なぜ固定化されるかというと、その方が生活する上でメリットがあるからです。固定化されたシステムは、過去に経験のある入力に対して即座に正しい出力を生成することができます。要は、大人になるにつれて社会での振る舞いがだんだん「わかって」くるということです。

しかしながら、これは大人になってから考え方を変えることが難しいということも意味しています。固定化されたシステムを変化させるには大きなエネルギーが必要ですし、変化させる途中で今まで獲得した概念を失うことにもなりかねません。私たちが未知の状況に対して臨機応変に対応することが難しいのは、このようなことが理由であると考えられます。

一方で、概念の獲得とシステムの自己変化は成長するために不可欠ですので、システムの固定化は、それらの前提条件と矛盾しているようにも思えます。これについては、恐らく、概念を獲得するまではシステムは積極的に刺激を求めるが、一度概念を学習するとその構造を書き換えることに対する抵抗力が生まれる、と言うことだと思います。もし、絶えずシステムを変化させる欲求を持つことができれば、大人になっても成長し続ける人になれる可能性があるでしょう。

特別な人間はいない

相互作用ネットワークを考えると、特別な人間が存在しないということも自動的に示されます。いかなる個人も、相互作用ネットワークを構成する単なる要素の一つでしかないからです。人間誰しもが、周囲の人たちからの刺激によって成長してきたのです。

これを理解せず、まるで自分一人で成長してきたと錯覚している人間というのも中々滑稽なものです。最近ではコロナの影響もあってか、人の命に優劣をつけたり、あろうことかそれを誰かが制御することを是とする様な価値観が散見されるようになりました。このような価値観を持つ人たちは、恐らく自分が特別な人間かもしくは全知全能の神か何かだと思い込んでいるのでしょう。しかし残念ながら、そのどちらも実際には存在しないのです。

彼らのように、他者を見下して悦に浸る人間については、もはや滑稽を通り越して愚か者と言うしかありません。しかしながら、このような価値観を持つ人間が生まれる原因もまた、特定の相互作用ネットワークにあると言えます。そのため、私たちは自分が所属する相互作用ネットワークを間違えないことが重要なのです。

【私たちは誰しもが多様性として受け入れられた存在】
第二章で述べた通り、コミュニティは多様性を内在しています。そして、個人というものはコミュニティの中に多様性として受け入れられた存在であると考えることができます。そのため、自分が多様性として受け入れられているにもかかわらず、他人の多様性は認めないという考え(誰かを個人の価値観によって排除するというような)は、そもそも矛盾しているのです。このことからも、他人の命を制御しようとする考え方は破綻していることがわかります。

誰かが誰かより劣るということはない

現代社会においては、多くの場合、組織内での地位や収入の高さが尊敬の対象とされることが多いと思います。しかし、狩猟・採集を基本とする生活をしていた昔の世界においては、身体能力や視力・嗅覚といった生物的な能力が尊敬される対象であったと考えられます。即ち、秀でている、劣っているという価値観は、特定の環境下において、相互作用ネットワーク内で共有されている一時の概念によるものに過ぎないということです。

そのため、人と違うことや、特定の能力を他人と比べて気にする必要は全くありません。仮に人類が同じような個性ばかりであれば、ひとたび環境の変化が起こった際に、誰も適応できずに滅び去ってしまうでしょう。一人一人が異なる個性を持っていること自体が、人類の存続にとって必要不可欠なものなのです。(ただし、相手に危害を加える個性は集団としては認められず、相互作用ネットワークから排除される可能性があります。)

【統合失調症は人類に必要な疾患】
精神科医で研究者のティム・クロウによると、統合失調症は人類の存続にとって必要な疾患であるということです。統合失調症は人類が誕生した時から存在する疾患で、その有病率は0.6~1.9%とされています。特徴的なのは、この精神疾患の有症率は、人種や民族、地域によらないという事です。発展途上国でも先進国でも同じなのです。この事実から、統合失調症が人類の生存にとって必要であると推察するのは自然なことだと思います。概念や価値観の基準は、その時代や地域によって決まります。統合失調症が疾患であるという認識も、所詮は現代の価値観でしかないと考えることができるでしょう。

要らない人間は存在しない

私たちは、誰もが何かしらの相互作用ネットワークに組み込まれた状態で存在しています。そして、自分と全く同じ人間は1人として存在しません。さらに、第一章で述べたように、人が成長するためには自分の中に存在しない概念を新しい刺激として受け取る必要があります。

つまり、私たちの誰しもが、他の誰かにとって重要かつ新しい刺激を持つ存在であるということです。相手にとって必要な刺激が何であるかは、一見するとわかりません。例えば、ある人にとっては私たちの何気ない言動や、または存在そのものが、非常に意義深いものになっている場合もあります。

仮に、自分自身を悲観的に捉えている人がいた場合、そのような感情はその人の個性の一部であると言えるかもしれません。自己肯定感が低く、自分自身を否定的に見る傾向がある人は少なくないのです。しかし、悲観的な見方ということと、その人が社会的に有用な存在であるかどうかということは、全く別の問題です。自分自身を否定的に見ているからといって、その人が価値のない存在であるということはありません。もう一度言いますが、私たちは誰しもが、他の誰かにとって唯一無二の大切な存在なのです。

このように、私たち一人一人の存在自体が、相互作用ネットワークを構築しているコミュニティにおいてなくてはならない大切な役割を果たしています。私たちには、他人の個性や能力を尊重し、その存在を認めることが求められますが、それと同時に、そして同じくらいに、自分自身を大切にしていくことが求められるのです。

文化と多様性とこれからの世界

第二章で述べたように、文化はあるコミュニティが構成している相互作用ネットワークの成熟した状態であると考えられます。相互作用ネットワークの成熟には、ある程度そこに含まれる人々が固定化された状態で長い年月を過ごすことが必要になります。

しかしながら、現代社会においては、技術の進歩により人々の移動やインターネット上でのコミュニケーションが活発になり、所属するコミュニティの壁を越えて人々の相互作用が影響を及ぼし合うようになりました。

このような流れにより、複数の相互作用ネットワークの統合や大きなネットワークによる小さなネットワークの吸収が生じると考えられます。つまり、現在存在する小さな相互作用ネットワークの成熟度の低下や消失(即ち文化の希薄化や崩壊)と、世界全体を網羅する1つの巨大な相互作用ネットワークの形成に向けた動きが生まれてくるでしょう。

このような動きは、文化の多様性や地域性の喪失をもたらす可能性がありますが、同時に、異なる文化間の交流や相互理解の促進にもつながると考えられます。

統合された巨大な相互作用ネットワーク

しかしながら、やはり吸収されたそれぞれのネットワークが本来持っていた文化が希薄化または完全に消失してしまうことは、私たちが懸念すべき問題であると考えられます。文化の存在は、世界の多様性そのものであり、このことは世界から多様性が失われることを意味しているからです。

多様性が失われた世界では、全員が共通の概念や価値観を共有しているため、正しい方向にも間違った方向にも全員で突き進みやすくなってしまいます。これは、人類の存続という意味においては危険な状態と言えます。環境の変化に対して脆弱になることにより、人類はその存続に大きな脅威を感じることになるでしょう。

【文化が必ずしも理性的であるとは限らない】
あらゆる文化は守るべきもの、尊重されるべきものという認識を持つかもしれませんが、ある文化の持つ価値観が他の文化の持つ価値観と相容れないということは多々あります。つまりは、一方の文化がもう一方の文化と敵対するという状況です。世界には、自分たちの文化こそが至高であり、他の文化を破壊して支配しようとする価値観が存在することも事実です。実際に、世界の多くの国は他の国を滅ぼし土地や人を支配することを歴史的に繰り返してきました。このような、全く理性的ではない価値観を持つ文化から自分たちの文化を守ることも必要なのです。

相互作用ネットワークの非対称性

多くのコミュニティで形成されている相互作用ネットワークは、非対称なものになっていると考えられます。例えば、会社というコミュニティにおいては、社長などの役職者が発した出力を多くの社員が入力として受け取ることになります。しかし、社員が発する出力が役職者に入力されることはあまりありません。つまり、この様な相互作用ネットワークでは、人々の入出力の影響度合いが対称ではないということです。

非対称な相互作用ネットワーク

非対称な相互作用ネットワークでは、少数の人々の価値観が優先的にコミュニティ全体に浸透することになります。つまり、良い意味でも悪い意味も、少数者に支配されているということです。

現代社会では、会社の他にテレビなどのメディアやSNSにおいてもこのような非対称な相互作用ネットワークが多く見られます。例えばツイッターでは、見ず知らずのアカウントによる投稿がおすすめとして強制的に表示されることがあります。テレビでは、ご立派な肩書をぶら下げて知識人を装った人物が、自分たちの利益のために世論を誘導する言論活動を日々行っています。これにより、私たちは意図せずとも、ある種の偏向した情報に少なからず影響を受けてしまうことになります。

情報を発信している人物が正しい価値観を持っている場合は問題ありませんが、間違った価値観を持っている場合には、多くの人々に悪影響があるため大変危険です。このような状況では、私たち個人がそれぞれ正しい価値観を持ち、情報を正しく判断できるようになることが重要です。

【知識無き価値観に注意する】
私たちの価値観は、自分の持つ知識の上に構築されているもののはずです。しかし、冷静に分析してみると、自分の中の全ての価値観がそのような正規の手順で構築されていないことに気付くはずです。例えば、皆さんは政治・経済について知識を持っていますか?多くの人は、専門的に学んでいない分野に関しての知識は持っていないし、何なら興味すらないと思います。しかしながら私たちは、日本がなぜ経済成長しないのか、なぜ少子化が進んでいるのか、なぜ軍隊を持つことができないのか、といった政治や経済政策に関する問い対して、何かしらの考えや意見を持っているはずです。なぜ、知識がないのに意見を持っているのでしょうか?それは、どこかのタイミングで何かから価値観を植え付けられたから、と考えることができてしまいます。

まさかと思うかもしれませんが、もし植え付けられたものでなければ、私たちは先ほどのテーマに対する考えや意見の理由を、自らの知識を持って論理立てて説明することができるはずです。それができない場合、私たちの持っている価値観は、テレビやSNSで誰かが発信していた意見をそのまま自分の中に取り入れてしまっている可能性が高いとみるべきです。「理論とかそこまでしっかりした意見を持っているわけじゃない」、「ただ何となくこう思ってるだけ」と思っている方もいるでしょう。しかし、その「何となく」という感覚がまさに、どこかで聞いた誰かの意見を自分の中に取り入れてしまっている状態を表しているのです。

誰かが発信している知識を取り入れて自分の中で価値観に育て上げることは何ら問題ありません。しかし、誰かが発信している価値観自体ををのまま自分の中に取り入れることは、避けた方がよいでしょう。

【最後は自分の直感を信じる】
現代社会は真偽不明の情報に溢れています。そのような中で、私たちが正しい価値観を持つことは容易ではありません。何を信じたら良いかわからない場合、私は自分の直感を信じるようにしています。基本的には、複数の媒体、立場が異なる発信者の情報を吟味して自らの知識と照らし合わせて判断していますが、どうしてもわからない時には最後は直感です。例えば、言っている内容は何となく正しいように思えても、それを発信している人の雰囲気や見た目、喋り方などに何か本能的な違和感を感じたら少し疑うといった感じです。かなり曖昧な基準に思えますが、経験的にこれはなかなか当たっていることが多いのです。ただ、もちろん百発百中ではありません。しかし、もし正しいと思った情報が間違っていたとしても、その時には間違いを認めて自らの価値観を改めればいいだけの話です。

さいごに

ここまで長々と書いてきた内容が、人間であり社会というものに対する現時点での私の感覚です。個人的に重要なのは、これらの結論が根拠のない妄想ではなく、事実を基にして構築した論理の上に導かれているという点です。もちろん、細かい部分は真実とは異なっているかもしれませんが、大枠はそこまで間違っていないのではないかと思っています。しかしながら、数年後にはまた新たな発見があり、全く異なる考え方をしているかもしれません。個人的にはそれも楽しみです。

【知りすぎることは良くない事か】
現代人は、この世界について昔の人々よりも正確な情報を持っています。例えば、私たちが生きるこの世界は物理法則に従って動いていることを多くの人が認識していますが、昔はそんな法則など認知されておらず、何か悪い事が起こるといもしない神様に生贄を捧げたりしていました。現代ではそんなことは絶対に行われません。生贄に意味が無いことを知っているからです。このように、正しい知識を得ることで、人間の生活は大きく変わってきたのです。

知識を得るということは、私たちが世界を見る際の解像度が上がるということです。一方で、知識を持ちすぎると、人によっては生き辛さを感じることもあります。なぜなら、解像度の高い目を手にしてしまったので、入ってくる情報が増え、その分多くの感情を感じることになるからです。知らない方が幸せだったなどと表現されることがありますが、そんな感じかもしれません。しかし、世界の知識は否応なしに更新されていくので、自分だけ何も知らない状態でいることはできません。知識は受け入れ、その中でどう生きるかを自分で決めることになるのです。