勉強の時給と生涯賃金という価値観

勉強の時給は2~4万円?

勉強の時給という彗星の如く現れた給与体系がある。

意味と定義は、

(受験の)勉強をした自分としなかった自分を考えたとき、勉強をした自分はしなかった自分と比べて偏差値の高い大学に入れるわけだから、その分高い給料の企業に就職することができ、人生で稼ぐトータルのお金(生涯賃金)が多くなるはずである。

この生涯賃金の差額(増えた分)は、自分が勉強をしたことで生まれたわけだから、

受験勉強の有無による生涯賃金の差額 ÷ 勉強時間 = 勉強の時給

と考えられるよね。

という具合である。

つまり、受験勉強を1時間することで生涯賃金がいくら増えたか、という値だ。

実際、東京大学、慶応大学、早稲田大学と、大学平均の生涯賃金には、この表のような差があるらしい。

大学生涯賃金(推定)
東京大学4億6100万円
慶応大学4億4000万円
早稲田大学3億8800万円
大学平均2億8700万円
参考:https://style.nikkei.com/article/DGXMZO15805150X20C17A4000000/?channel=DF080720160380


大学平均の生涯賃金と比べて、東京大学、慶応大学、早稲田大学の生涯賃金は1億円~2億円弱くらい高いわけだから、受験勉強をしたことでこの差が生まれると考えた人が、このような勉強の時給という概念を作ったことも頷ける。

受験勉強は生涯賃金を増やすためにする?

さて、受験勉強を頑張って偏差値の高い大学に入ったら、生涯賃金が増える。
というデータがあることはわかった。

では、受験勉強とはそもそも生涯賃金を増やすため(=お金をより多く稼ぐため)にするものなのだろうか?

これには色々な意見があるだろう。

個人的には、生涯賃金を増やすために受験勉強すること自体はそこまで問題ないと思っている。

受験勉強に限らずであるが、どのような人生を生きるかはその人の自由である。勉強のモチベーションを何に見出すかも、当然自由だと思う。

ただ、自由とは言っても人に迷惑をかけるのは論外なので、そうでない事は大前提である。

人よりお金を稼ぎたい、という欲求自体は他人に直接的に迷惑をかけるものではないので、そこまで問題ないはずである。

人と比較することで達成される目標

生涯賃金を増やすという目標を受験勉強のモチベーションとすることはそこまで問題ないはずと書いたが、本当にそうなのだろうか?

この考え方に、ちょっと危険な香りがするのは気のせいだろうか?

恐らく、その予感は正しい。
この考え方は、一歩踏み外すととても危険な思想になってしまうと思う。

なぜそう思うかと言うと、

それは、これが人と比較することで達成される目標だからである。

東京大学を卒業した場合の生涯賃金4億6100万円に価値を感じるのは、大学平均がそれよりも低いからだ。

大学平均が10億円なら、4億6100万円に価値を感じないはずだ。

つまり、4億という金額は重要ではない。

他人より多いこと、つまり、「相対的に自分が優位である」ということに価値を感じてしまっているのだ。

どうだろう、危険な香りの正体が少し見えてきただろうか。

相対的に優位に立ちたいと思っている人が人のために働けるのかという疑問

生涯賃金に限らずであるが、人と比較したときに相対的に優位に立ちたいという一心で努力してきた人が、果たして自分以外の人のことを考えることができるのかという率直な疑問がある。

直感的には、それは難しいんじゃない?と思うだろう。
私もそう思う。

給料の高い仕事というのは、それなりに多くの人々に影響を与える仕事でもあるだろう。そういった仕事をする際に、相手の気持ちを考えられるか、寄り添えるかというのはとても重要な要素になってくる。

このような時、相対的に優位に立ちたいと思っている人が、良い仕事ができるかはとても怪しい。少なくとも、社会を良くしたい、人のためになる仕事をしたいと思って今までやってきた人と比べると、その根底にある価値観の差は明白だろう。

これは別に、仕事において誰よりも凄く、その道の第一人者になりたいというような個人の向上心を否定しているわけではない。あくまで、相対的に優位に立ちたいという考え方に内在する問題があるのではないか、と言っているのである。

他人を蹴落とすことでも目標が達成されてしまう問題

自分の生涯賃金を他人より(相対的に)増やす方法は主に2つある。

一つは、自分の生涯賃金を上げること。

もう一つは、他人の生涯賃金を下げることである。

言い方を変えると、
分子(自分)を大きくするか、分母(他人)を小さくするか、という話である。

前者の方法は自分のレベルを上げようとすることと同じわけだからまあ問題ではない。
問題なのは後者の方法を意識し始めたときである。


そう、人と比較することで達成される目標を設定することの問題は、他人を蹴落とすという方向に思考が進みやすい、ということにある。

生涯賃金という価値観に自分が支配される

人と比較することで達成される目標を立て、それを長期間に亘って目指していると、自分の中でその基準(例えば生涯賃金)が絶対的な価値観を持つようになってしまうことがある。

そして、その価値観で他人を判断し、最悪の場合見下すようになってしまう。

例えば、この考え方で勉強を頑張ってある程度成功した時に、自分より稼いでいない他人を見てこう思ってしまう人は少なくないはずだ。

「自分がお金を稼いでいる、または今の立場にいるのは、自分が人より頑張った結果であり、他人が自分より稼いでいないのは、努力しなかった(怠けていた)からだ!」

これはとても危険な思想である。
自分の価値観に自分自身も支配され、他人という多様性を受け入れられなくなっている。

もちろん、その人があなたより稼いでいないのは、怠けていたからではない。

その人にはその人の人生、考え方があるのだ。それをあなたの(生涯賃金という)物差しで測ってはいけない。

あなたはただ勉強を頑張っただけで、神ではないのだから。

他人を見下す必要性がない

最初は、生涯賃金を増やしたいというちょっとした欲望であったとしても、その価値観に自分自身が支配され、間違った方向に進んでしまうことは多い。

自分がちょっとでも成功したら、他人を見下してしまうこともその一例である。

最初から、他人を見下したいから勉強を頑張るんだ!
というモチベーションの人はいないはずである。(いたらマジで危険な奴だろう)

ここは合理的に考えよう。
そもそも、人を見下す必要なんて全くないのだ。

生涯賃金を増やすという目標を達成するために、果たして人を見下す必要がありますか?

答えは、無い」一択である。

人を見下すことによるあなたへのメリットがマジで一つもない。

自分の価値観が自分の人生を邪魔してしまっているのである。

思想に囚われるな

人を見下す合理的な理由が存在しないにもかかわらず、気付かない間に自分の考え方に自分自身が支配され、人を見下すようになってしまう。

これはまさに、価値観という名のウイルスと言ってもいいだろう。


つまり、

人より優位に立ちたいと思うことが問題なのではない。

問題なのは、その思想に自分自身が囚われてしまうことである。


「人よりお金を稼ぎたい。」

こういった欲望は、あくまで頑張る動機(勉強するモチベーション)として利用するだけに留めた方が良い。

この思想に囚われてしまうと、自分の物差しでしか人を測れなくなる。

自分より稼いでないと、努力不足の頭の悪いやつ。自分の方が仕事上の立場が上なら、相手は努力不足のダメなやつ。だから、人間的に上である自分が何を言ってもいいし、自分の思い通りに動くように管理してもいい。

だって、自分は特別階級なんだから。

こんな風にどんどん自分の中で考えが進んで行き、どうしようもない価値観モンスターが誕生する。

若いうちはその間違いに気付くことができるが、年を取ると自分ではどうしようもできない。

正直に言うが、世の中には、こんな頭のおかしい年寄りがわんさかいる。

みんなも気を付けよう。