英語を捨てる
『英語』は、中学から急に時間割に登場した科目の1つ。当時の私はそう捉えていた。
英語が苦手だった私は、複数科目のテストではいつも英語を捨てていた。そう、単に1つの科目を捨てるような軽い気持ちで。
周りを見ても、数学が苦手な子は数学を捨てる。それは当たり前の光景だ。テストでなくても、体育が嫌いなら授業をさぼる子もいるし、部活をやりたくないから帰宅部になる子もいる。どれも似たような感覚である。
そして中学を卒業後も順調に英語を捨て続け、歩く英語の不法投棄と化していた私であったが、じわじわとある違和感に包まれていくことになる。
人生の様々な場面で、捨てたはずの英語が何故か必要になってくるのである。大学での論文作成、就職した会社での海外出張など、あらゆる状況で英語が顔を覗かせる。
いや君はあの時捨てたはずだろう?なぜ今隣にいるんだ?
溢れ切ってもう誤魔化しがきかなくなった違和感は、認めるのを避けていたある確信へと変わる。
そう、英語は量産型の科目ではない。こいつは特殊過ぎる。
英語だけなんかおかしい
結論から言うと、英語は他の科目では成り立つはずのある重要な法則が成り立っていない。
その法則とは、
どうしようもなく苦手な科目を完全に捨てて得意な科目だけをやったとしても、まあ何だかんだ上手いことやっていける雰囲気ある。
というものである。
例えば、物理が苦手な人は別に無理して物理を勉強しなくても他の得意な科目だけで大学以降も何となく上手いことやっていける。理系の大学に行かなければ生涯物理なんかやらなくても多分問題ないし、やる必要に駆られることもないだろう。歴史や地理が苦手と言う人も同じ感じである。(もちろん例外はあるだろうけど)
だがしかし、英語だけは苦手だからと言って避けているとどこかでなんかどうしようもなくなる瞬間が来る。
英語が苦手だけど物理は得意だからと言って物理学だけを勉強していたとしても、どこかで必ず奴は来る。
まず、物理の研究者になるためには英語の論文を読んだり書いたり英語で議論しなければならない。これは物理に限らずどの学問でも同じである。その学問と英語は直接関係ないにもかかわらず、どこかで英語をやらなきゃいけなくなる。なぜか英語を避けて通ることはできない。研究者まではいかなくても、なんなら大学生くらいからもうがっつり英語が必要になってくる。
同じように、数学をやるには数学と英語、社会科学をやるには社会科学と英語、就職して英語関係なさそうな会社に入ってもなんだかんだでやれ英語。何をやってもなぜか英語だけはストーカーのように付きまとってくる。
こいつだけ特殊過ぎる。なんかおかしい。
この事実に気付かずに英語を単なる学校で習う科目の1つだと捉え、こともあろうにそれを捨ててしまうと、どこかで英語が必要になったときにその状況から逃げることしかできないナチュラルボーンTOEIC200点台(私)が生まれてしまうのである。
英語が苦手な場合だけハードモードすぎる
もう正直に言うけど、この現状は英語が苦手な人にとってはハードモードすぎる。
英語以外は苦手でも問題ないのだ。物理も数学も、体育でも音楽でも美術でも何にもできなくても全く問題ない。英語だけが苦手だと問題ある。
自分はあたかも一般科目の1つですよ、という顔で時間割に紛れ込んでいる英語が、まさかこんなトラップだとは誰が思う?初見殺しにも程がある。
僕「よし!物理実験で凄い成果が出たぞ!英語で論文書いて国際学会で発表するから英語の勉強とスピーチの練習しなきゃ!」
なんでやねん。英語関係ないやろ。
僕「英語は苦手だけど、理系科目が得意だから高専で頑張ろうっと!」
高専「TOEIC400点を取らないと専攻科は卒業させません。」
なんでやねん!高専の全教科の中で英語一番関係ないやろ!
野球上手い人「野球頑張ってプロになったぞ!FA宣言でメジャー挑戦だ!そうだ、チームメイトや監督、ファンとのコミュニケーションのために英語勉強しなきゃ!」
いやもうどないやねん!
運動が苦手だから勉強頑張ります!勉強が苦手だから運動頑張ります!
○○が苦手だから□□を頑張ります!の鉄板と思われた関係式が、○○=英語の時だけ通用しない。
なんだろう、この英語だけは苦手だと許されない空気感。
「逆上がりができないんです」と言われてもなんとも思わないが、「be動詞がわからないんです」って言われたらちょっと引くだろ?
そういうことよ。
マラソンで置き換えるとちょっとは伝わるかな
いまいちピンと来ていないまともな読者のために、英語をマラソンに置き換えて頑張って説明してみる。
例えば、あなたの通っている大学で、
「大学を卒業するためにはTOEICで400点以上取らないといけません」
という条件があったとする。これは英語が苦手な人にとってはとんでもなく厳しい条件であるが、そうでない人にとっては特に危機感を感じるほどではないかもしれない。
でも、この条件が仮に、
「大学を卒業するためにはフルマラソン(42.195 km)で4時間切らないといけません」
だったらどうだろう?運動が苦手な人はかなり危機感を感じるのではないだろうか?危機感というか、なんでやねん!マラソン関係ないやろ!っていう怒りや違和感などを感じるかもしれない。
英語はこの先も必要だから卒業の条件として設定されるのは当然だけど、マラソンは関係ないからそもそも問題提起として成り立ってないだろ!おかしい!と思った人もいるだろう。
ただ、理由なんて英語と同じでいくらでも後付できる。
例えば、
「これからの仕事人生では健康が何よりも大事である。そのための基礎能力として、体力を重要視してほしいという想いを込めている。さらに、これから先は人生120年時代が来るかもしれない。そういった新しい社会をより力強く生きていくためにやはり体力は若い内に身に着けておいて然るべきだ。」
みたいな具合である。こんなの、英語も似たような理屈だろう。まあこれでも無茶苦茶かもしれないが、仮の話として付き合ってほしい。
こうなると、今まで運動が苦手で運動から逃げてきた人たちは急に大変になるわけである。
大学の勉強もしなきゃいけないのに、それに加えて苦手な運動をする時間を捻出しなきゃいけない。しかも、マラソンとなれば毎日ランニングをして基礎体力をつけていかないといけない。そもそも苦手なことを毎日やらないといけないわけで、これはなかなか苦痛である。
そもそも、心の中でマラソンに対して納得してないし、運動は嫌いだし、何のモチベーションもないのだ。メンタルは最悪の状態である。
そんなところに、運動が得意でフルマラソンで3時間を切るようなタイムを持っている人たちが上から目線で色々言ってくるのである。
シューズはこれが良いよ。
毎日のトレーニングは何してる?
お勧めの練習方法があるよ。
あの呼吸法はもうやってる?
「私がタイムを6時間から5時間に短縮した10個のトレーニング」って本読んだ?
俺がやってるランニングの有料セミナーがあるんだけど来る?
このランニング系のYouTuberはチャンネル登録しといた方が良いよ。
もう色々パンクすると思う。
なんで運動が苦手なだけでこんなに苦労しなきゃいけないんだよ!他は苦手でも全然問題ないのに!って思うだろう。
これで伝わった気は全然しないが、まあ何かこんな感じである。
あとがき
改めて読み返すとめちゃくちゃな内容である…
しかし、ボツにするのももったいないので思い出として投稿することにします。誰かの暇つぶしにでもなれば…